検索

ライブハウスコタンを継続させたい

という名の記事が流れてきました。僕が最後にコタンの名を聞いたのは、こないだねえ中牟田さん見にコタンに行ってきましたよ。という知人の言葉でした。そのあとに聞いた言葉が忘れられません。正直こっちに出てる人たちのほうが上手です。と足元を指差していました。

それはそれは、残念なことでした。コタンといやあ、そりゃほぼ店長の独断とはいえオーディションが妙に厳しく、それ故もあってか上手な演者がゴロゴロ出演していた90年代は、僕にとっては、ほんの目の前にあるのに全然、指も届かない壁そのものでした。

それが、そんな言われようです。勿論、その原因もさんざんこの二十年取り沙汰してきたので、分かっています。あんまり残念だから僕は2005年あの年を最後にもう出るのはやめようと決めたのですもの。その後、自分自身の紆余曲折のせいで、また付き合いがありましたが。

外出自粛していたから、こんなことになってることすら知らなかった

その記事の中に、さりげなく元オーナー三上左京さんの急逝が記されていました。言うまでもなく雲の上の存在で、毎月スケジュールの載っていた素敵な一枚ペラ、コタン短信の中の文章を読むばかりの方でした。ゆえに僕がお会いしたことがあるのは、多分一度だけです。

それは、リハーサルの時間でした。僕はなんでなんだろうなんでなんだろうなんでなんだろうとリハーサルから汗をかきかき、ダメだダメだ腹から声を出せ何言ってるかわかんねえんだよと店長に怒鳴られ、冷たいよそよそしい目の先輩たちの前で、歌っていました。

コタンのリハーサルの時間が最も緊張したと言う記憶は、多田聡ほか、あの頃の同年代以下の者たち共通の記憶ですから珍しいことではありませんでした。が、その日は穏やかなおじさんが座って見ていて、終わった後に一言、僕に声をかけてくれました。

きみはいいもの持ってるから、がんばりなさい。と。その人が、三上左京さんだと、そのあとでうかがいました。当時四谷コタンで人に褒められたことなど、まずなかった僕にとっては、正真正銘驚きしかありませんでした。どう考えても25、6の僕の歌はひどかったです。

それでも、その嘘のような一言は当然、大きかったのです。自信のかけらもなかったあの頃。もう修行するしかない、認められるまで頑張ってみるしかない、まずはこの店を店長を見返してみせなくちゃやめられない。というような気持ちでやっていました。

若い者にかける一言。これがどれほど甚大な影響を与えるか、身を以て知っています。そう、僕は絵を描くのが大好きでした。父も叔父も伯父も従兄もみんな上手です。でも、学校の先生のただの一言から、一切描くのをやめました。今でも抵抗が強いです。

コタンを継続させたいという文章の中で、今の僕はその人の命日を知ることができて、よかったなと思うのでした。あの日あの後の僕は、その嘘のような言葉を頼りに、ずいぶん一生懸命やったものでした。いや、だから、嘘でいいんですってそんなもの。

そりゃたいていの若い者、いいもの持ってるに違いないです。可能性という、例えようもなくいいものをさ。

0回の閲覧

© 2017-2020 ishimurafubuki All Rights Reserved. 

  • Twitter
  • Facebook Clean
  • Instagram
  • YouTube
  • YouTube 2