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僕とボイストレーニングと宅録

阿佐ヶ谷にあった、ワンバイブスというボイストレーニング教室が、今月移転したらしい。たまたま、見かけて知った。


僕は、いわば先代のワンバイブスでボイストレーニングを教わり、講師になり、その技術をもとに独立して今の生業に至る。すなわちワンバイブスとは、とても無関係とは言い難い。

思い出深い教室でのことを振り返る気持ちのついでに、表題についてまとめておこうと思う。


そもそも。録音なんて専門家に任せればいい領域だ。なのに何故、自分でやることになっているのか。そう疑問に思う人がいままでにいても良さそうなものだ。今のスタイル、ひとりでギター弾いて歌うだけなら、ボイストレーニングとか録音とか、別にいらないじゃん。と。


高校生の頃、歌を作り始めた。中学生の頃からギターを弾きはじめ、昼間はギターを弾けても、夜はうるさいし勉強しなさいととめられていたので、その代わりにまだろくに書けもしない譜面を書いていた。


ちょうどほら、英語の筆記体を練習する4本線のノートがあって。それに一本線を書き足しては、楽譜が販売されていない曲の譜面を書く、という健気なことをよくやっていた。お小遣いは少なかったから五線紙は基本的に自分でつくっていた。


これは小学生の頃、雨が降ると野球ができないので、野球選手の絵を家でひたすら描いていたのとおなじ傾向だから、とても自然なこと。


ちなみに、大人になってその相似形を見いだすことができる瞬間は、事務用途プログラムを通勤中にiPhoneのメモ帳に書いていたりする時。もちろん、歌詞を書いている時もそうなのかもしれない。


あーさらに思い出して来た。教室のレイアウト計画図をかいておくだとか、その前段階の自作の遮音壁の構造だとか転倒せず壁も天井も傷つけない構造のアイディアをかいておくだとか。


要は気持ちがはやりがちなのだ。何もできない時間には、紙に計画を書き続けるのだ。

とにかく作るのが好きだった。高校生の時には自分の曲の、いわゆるバンドスコアを書いて、メンバーに渡していた。ギターはもちろん、ドラムもベースもキーボードパートもだ。余談だがそのメンバーが今やプレイヤーとして成功してるのだから、負けず嫌いの僕が歌作りをやめる理由がないのも頷けよう。


というわけで、高校生の時から多重録音をするのが大好きだった。譜面だけでは伝わりにくいなら、デモテープを作ろう。なんならそのまんまの勢いで、作品に仕上げてみよう。という気持ちになっていくのは自然だった。


録音をするには、録音部屋が必要だ。雑音が入らない場所で、好きなだけ時間がかけられる場所。この動機が、その後今に至るまでずっと続いている。だから、自作でも部屋が必要なのだ。決して、教室をやりたいわけではないのだ。


この順番を僕以外のたいていのひとは、見間違える。当たり前と言えば当たり前かしら。もしかしたら、僕が他人から理解されにくい最大の原因の一歩目は、ここなのかもしれない。


録音の中で当然大きな位置を占めるのは、歌声パートだ。メインのパートだけでなく、コーラスだってある。とても重要だ。だけど、これがおそろしく苦手だった。というか簡単に言えば下手だった。より正確に表現すれば、自分が思うよりもずっとひどかった。


それを思い知るのは、多重録音を十年近くもやったあと。25歳でライブハウスに出始めてから。つまりこれがあまりにも遅かったと言うべきではある。だって、小さいなりにもコンテストで金賞とか貰った後だもの。少し自信つけちゃってたじゃないか。それにしても遅かった。


自分の至らなさを思い知ったからこそ、ボイストレーニングに立ち向かってみた。恥ずかしいので誰にも言わずに。それが冒頭の阿佐ヶ谷の教室だ。まだ、ボイストレーニングが我々一般人に向かっては開かれていなかった頃だと思う。


きっかけは、サンレコ誌の文通欄にあった、ボイストレーニングやります。の文言。そこに向かってハガキを書いた。返信封筒には、教室の紹介文書が一枚のコピー用紙で入っていた。そこで初めて、電話問い合わせをした。


そしてそんな時代だからか、本当に誰にも言わなかった。ライブハウスの店長も僕の声の変化には気がついていたようだけれども、僕が教室に通っていたことを実際に吐露したのは、教わっていた時期を過ぎ、すでに講師をはじめていた頃だった。


もちろん、自分が当初の目的としてた録音における声パートの精度は上がっていた。けれども、これはやればやるほどに、アラが見えてくる。上が見えてくる。言い換えれば、やればやるほど満足とは程遠くなっていく。それが今にまで続く長い道の始まりだったのだろう。


僕は、自分の練習ができる環境を手に入れるために、ボイストレーニングの講師になった。阿佐ヶ谷駅のホームからピョコっと見えるあの部屋だ。練習をして、録音をした。合間にレッスンが入ってお仕事をした。その繰り返しだった。


残念ながら上手くなるほど、自分の下手さに打ちのめされた。打ちのめされながら、僕は、有醜の美、我が世の春、ああみれにあむ、風薫る六月の君へ、未定、といったアルバムを作った。1998年から綺麗に一年に一枚ずつ、阿佐ヶ谷で作った。


あまりに電車軌道に近くて、中央線が通る度揺れるし、当然騒音源から数メートル、というすごい環境だったけれども、アルバムは作れた。まさに思い出深い場所。だったのだなあ。


空き部屋になった3階の中が見えたので、不躾ながら撮って来た

もちろん、簡単に上手く成らなかったからこそ、会社員出身の自分のできることで教室の安定的運営実現を目指した。雑誌の文通欄からしか問い合わせがなかったのに、1998年夏ホームページを作るや、急激に問い合わせが来るようになった。勤怠管理のプログラムも作った。いずれも無報酬だった。まるで自分の事業のようだった。


阿佐ヶ谷の教室は同僚講師も増え2001年があける頃には建物の3階4階5階の三部屋が常時満杯になり、休憩時間にまで他の講師と入れ替わりにレッスンが組まれるほどになった。休憩時間の僕は、どこへ行けばいいのだろう。そんなに働いても、完全出来高制で面白いくらいお金はなかったから、散歩するしかなかった。


お仕事としては、報酬以外は順調になっていた。しかし残念なことは、録音どころか練習する時間もなくなってしまったのだ。だから、僕のために水道橋あたりに教室を作ってくれと上司に進言するまでになった。2001年の終わり、冬だった。そして、行動派の上司のおかげで、即実現した。


そこは阿佐ヶ谷に比べて天国だった。家からも電車で一本で通えるし、水道橋駅のすぐそばで、野球も見に行ける。お仕事以外は同僚も上司もいなくて一人で過ごせて、何より、録音し放題なのだったから。


この後、2003年に独立をして真の自由を勝ち取り、録音三昧になっていくのだった。が、肝心の録音技術、録音機材への関心が薄かったので、そこはなおざりのまま、それでもさらに毎年一枚以上のペースで十数年を重ねていくことになるのだが、ここまで来るともう思い出の話ではなくなって来るので、ここまでとしよう。


ここまで書いて来て気がついた、タイトルでは、宅録、と書いてあった。文章内では、ひたすら録音、と書いて来ている。気分的には実は、宅録、が正しい。自宅録音である。90年代はまだ、日本語入力プログラムで宅録は一発で変換されなかった。宅と打って録音と打って、音を消す、という書き方をいていた。そんなマニアックな言葉だ。



このように、この20年以上の僕は、宅録のために、ほとんどの時間が費やされる声パートの効率化を目指してボイストレーニングを始めそして続けてきたことと、新しいうた作りとともにそれを晒す活動すなわちライブを続けること。この二つの柱があったおかげで、僕はいわゆる専門教育を受けることなく、たまたまt、教室運営ができた。


だって、講師にならないか?石村さん講師ならできるからさ。と声をかけられなかったら、自分で講師を目指すわけもなかったから、つまりシブイオンガクスタヂオも存在しなかったことだろう。その声をかけられた思い出の場所が、阿佐ヶ谷北にあった。代替わりを経たものの、つい先月末まで教室という形だけは残っていた。そして今ついに、空き部屋になったのを写真に収めた。少しだけしみじみするべきかな、と思ったんだ。

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