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初の花火という事情

最近、手帳に手書きが楽しくて、そのせいもあって日記テキストを作らなくなり、最近況は例によって語るに足らないツイッターばかり。


僕の場合は、瞬発力を発揮するよりも、充分時間をかける形、それでいいんですけども。なにせ、この世の感覚とずれている。面白いずれっぷりなら許されもしようが、誤解を受けやすいずれっぷりは損だ。損得勘定をするのが、大人だから。




今は、何様でいこうか、の中の、またくる七月のために、の中でうたう、花火の歌をひとつ仕立てて、ほっとしたところ。これほど長くやって来て、花火を題材にしたうたがないと言うのは、自分でも意外なことではないか。


と言うのも、僕が花火と聞いて最初に思い出すのは、

まあ僕らはいつでも花火を打ち上げればいいんだから

というにがい台詞。これがあって、花火という言葉からは避けて来たんだ。これ、意外に面白いから書きつけておこうと思う。


僕の働いていた教室のボスが、地元東北でご当地アイドルグループを立ち上げるんだ、と言いだして、デモ作りを手伝ったりしていた。僕は今に至るもアイドルグループには興味がないので、そのデモでギターを弾くときに聴こえてくる仮歌にも苦笑していたものだった。ただし今思えば、あれは2001年から2002年ごろであり、じゃっかん時代より早すぎた、という好評価はできるだろう。


で、彼はその企画を出身の地元に持ち込み、自身で若い子を集めレッスンをして売り込んだりして、稼働させ始めていた。やっぱりこう書いてみても彼はすごい人なんだけども多少、いや結構な強引さがあるから、協力者と簡単に仲違いもしたんだろう。地元の人に、企画を委ねることにしたのだと思う。手を引くことを決めたのだと思う。その時に僕が聞かされた台詞が、それだった。


当時の僕はとにかくボイストレーナーのお仕事にもなれて来たものの、阿佐ヶ谷まで電車を乗り継いで通うのが億劫になっていて、家から直線で通えて、ついでに東京ドームに近い水道橋に分室を作ってもらう流れを作るべく、組織の収益拡大のために非常に異様に尽力していた。当然に経費計算もしていたから、ボスがどれくらい儲けているかも把握していたので、こりゃやっぱり不当な労働環境だな、と不満も持ちつつも、実際に水道橋に分室を作ってもらって一安心していた頃。お互い少し、気が緩んでいたかもしれない。


この345Fをフル稼働させ、僕一人水道橋に移転した。

でも僕は、あの台詞が許せなかった。こっちは自分含めた従業員の人件費計算までしていて、それが経営を圧迫しないように報酬請求を抑えるための無給労働をさんざんしていた。ボスはそれを見て見ぬふりの当たり前という姿勢。


つまり僕が敢えて請求しなかった報酬は、どっかで花火にされて来たんだな、と思わされてしまった。


という苦い体験があったから、花火という言葉を避け続けて来た。


ようやく、自然に歌に使うことができた。時は確実に流れたのだなあ。

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