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東京というまちで

僕はしょせん、2000年から新聞の記事を追いかけるところから始まった。それでも、なんなんだ小笠原昨日も打ったか小笠原。まだ目にした回数も少なくて、実際姿形を思い浮かべる材料もなく、いったいこの選手はどんな人なんだろうかと興奮したものだった。今も昔も、情報は少ない方が燃えるもの。



が、茂さんとお話をさせて貰うようになってから、2000年からのファンなんて、辛酸を知らない甘々のヒヨッコであることを思い知らされるのだ。だって実際、ほんの五、六年後にはこの目で優勝を見るのだし。


茂さんは小学生の時からファイターズを応援してきた。時折当たり前のようにフライヤーズという言葉が出てくるのも当然かも知れない。そういう年代だもの。


当然に、1981年の後楽園決戦という言葉は何度も出てくる。公式記録であり調べればわかる話だが、東京の往年のファンがこれを踏まえて積年の恨み、みたいなことを言うのだということは覚えておいていいだろうけれども。


いやいや。それ以上に興味深かったのは、すべての娯楽は後楽園球場の応援席で覚えた、といった不思議な話とか。最も驚いたことは、小学生の時に友達を日本ハム戦に連れて行ったら、友達の親御さんから後で電話でお咎めを受けたという、俄かには信じがたい思い出話だった。


なんという差別感。ジャイアンツだってファイターズだって同じ日本プロ野球だというのに、どうして、「そんなところへ連れて行かないでください」などと言われなければならないのか。今の僕なら即座に義憤にかられて歌にする出来事だ。マイノリティの風当たりの強さを、たかが贔屓球団の違いで感じるなんて。


ところが確かに、本当は。


この僕だって東京育ち。それも文京区の野球チームで野球を覚えたような東京の子だったから、身に覚えがある。小林繁が大好きだった僕は当たり前にテレビで巨人戦をみる、普通の子だったから、本当はわかる。


身の回りで少年ファイターズ会に入っていたのは、クラスの小幡君だけだった。なんでファイターズなんだろうかって見下すように思ったことがある。小学生だ。小学生男子なんて、ほとんど自分で判断などできるまい。つまり、情報の偏った地方都市と同じく、なんでもあってなんでも揃って選択自由なはずの東京だって、そんな不平等な空気だったのだ。


五月のゴールデンウィークになると思い出す。ある年、後楽園は暑く、遊園地はごったがえしていたけれども、同じ敷地のファイターズ戦が行われた東京ドーム内は、エアコンがほどよく効いて快適なほど、人口密度が低かった。


僕の場合は小林繁投手が何かの事情で在籍球団を変えてから、急速にプロ野球に興味がなくなったところから、自分というものを形成していった。ちょうど、野球を忘れてギターを覚えていったところから、自分が始まったと言ってよい。


だのにまた、近年も野球ばかり見ている。ばかみたいだな、と思いながら。そして時々、小幡君のことを思い出す。彼は今こそ、胸を張って応援しているかしら。


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