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空白期間 を埋めていく


そのお問い合わせの方への返信で、僕は、僕の時間は連続していました、というような書き方をしました。つまり、ずっと同じことをやって来たということです。

その方への説明の体で、その後の僕はこんなだったんだよと、書き連ねてみることにします。ちなみに僕はその方のお名前はかろうじて覚えていますが、お顔までは多分当時も把握しなかったかただと認識しています。(もし違ってたら、怒ってメールをください。)

懐かしの君へ,その後の僕を語る

君が17年というから、真に受けてそこから書き起こすことにしよう。

2001年から2002年にかけて、僕は当時べんべんでもお世話になっていた、大平勇さん宅での遮断機のあるまちのレコーディングと、未定という宅録制作の同時進行をしていました。


遮断機のあるまち、は、ちゃんとドラムから全部生演奏で仕立てられていて、僕の稚拙な声以外は今でも聴くのが楽しい音になっています。当時は懐疑的だった出来映えも、今思えば僕の不勉強のせいで、やっぱり、やって貰えて幸運だったなと思います。以後大平さんはお忙しくて、そうだ、直後に遮二無二元論を作ったのが最後の機会でした。



対して、同時に作った未定だって今でもたまに歌う歌があるし、決して捨てたものではないのですが、やはり録音クオリティには格段の差を感じます。その差ひとつで、遮断機のあるまちの方が好き、という声は当時もありましたし、長い目で見ると、僕にもそのように思えてきます。三人目の孫という隠しトラックまである、愉快な作品集だったのですが。録音し直してみたいな。


2002年の二枚を作ったのちに、あぶれた曲たちがあるなあと思い、まあどれもこれも知られてないけど、価値は同じなんだけどなあ、という思いで、君の知らないうた、をまとめました。それはもう出来たのは2003年になっていたかな。僕の概ね無後悔の人生に於いて、例外はこの一言です。

「録音し直してみたいな。」

そんなに録音が大事なの?という自問はありますが、録音物の方が聴いてもらえる機会は多いのですもの。仕方ないです。例えばこうして空白を埋めるために、CD作品ならばこっそりと後追いできるのですからね。

このころ、僕は職場から独立して雑居ビルで毎日、生徒募集に明け暮れていました。振り返れば、この頃からべんべんの相方岡崎とも全く会っていません。自分のお仕事に邁進し始めたのです。


さておき。自分の宅録能力の限界に打ちひしがれるたびに、生録音を始める、というパターンが僕にはできました。その最初が、その場違い、という四枚シリーズでした。四枚のジャケットを揃えて並べると吉田朋子さんの素敵な絵が出来上がる仕掛けでした。イイヨー。(このあと生録音シリーズは、わすれものおとしもの、の時期、しわあわせつぼさがし、の時期、と二度訪れます)


その場違いは、今や販売は差し控えるものの、2005年の異様な作品作りペースを思い出させます。あの年は四谷コタンがビル建て替えで無くなると聞いて、育ててくれたお礼として毎月五曲新しい歌をライブで歌ったのでした。その勢いで当時の集大成、うつつのしらべ、を作りました。元気だなあ。集大成と自分でいうだけあって、もう現物がないほど売り切りました。


ちなみに、録音でパソコンを使い始めたのは、この時が最初です。しかしソフトウェアもハードウェアも高くて買えないので、フリーソフトだし、マイクは専用のものでなく、ポータブルレコーダーのアウトプットを使用したり、あるいは生徒さんから借りたり、とにかく商品を作るための設備としては、学生の趣味のレベルの方がマシだったという時代が続きます。そうまでして、作りたいと普通思うのかどうか、もうその頃には、普通のことはわからなくなっています。

2006年からライブ拠点は、結局建て替え立ち退き話もなくなった四谷コタンから赤坂グラフィティに移りました。2006年の春に立て続けに作った、からあげ小竹向原の彼女、これらがその後数年の活動の核になりました。これを心機一転というのでしょうか、面白いものです。

あ。僕は次のライブのために準備をしなくちゃ。続きはまた、今度かきます。


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