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空白期間 を埋めていく(2)


(つづき)そのお問い合わせの方への返信で、僕は、僕の時間は連続していました、というような書き方をしました。つまり、ずっと同じことをやって来たということです。

懐かしの君へ,その後の僕を語る

君が17年というから、真に受けてそこから書き起こすことにしよう。けどもよくよく聞けば、2002年までは聞いていたそうな。つまりそれ以降、15年ということで良かったのですね。

いずれにせよ浮かぶ言葉は、ありがとうございました。しかありません。

2006年に転地療養的な気分で僕は毎月うたう場所を赤坂グラフィティに移しました。ところが、心機一転のはずがこのころ僕は、環境と自分の力不足との齟齬に苦しんでいました。挙句に、ありや為也などと名前を変えてしまいます。



その名で発表販売したからあげロールキャベツは、後にまた実名に戻した時に、ゆめのしらべに包括してしまうという錯乱ぶり。ただこの時に作ったはじまらない物語は、続編作品を含めて、今もまだまだ年に二度くらいはやれる演目になりましたから、それはそれで楽しいまわり道だったのだと、十年を経て思うのです。



僕がべんべんをやっていた頃は、ラブソングなんてこっぱずかしいものをやる気はないと思っていました。独り善がりだったかもしれません。年嵩の人から、

「せっかくお客さん女性ばかりなんだから、もっとラブソングを作れよ」

と、当時本当にそのまんま言われた言葉でした。それを鵜呑みにして、作り続けました。ゆめのしらべは、うつつのしらべと対になっています。読んだままですが。

三十代の自分はいつも七転八倒していました。四十歳が見えてくる頃、一度やめて生業に専念してみよう。という気持ちになりました。制作費、ノルマ、交通費、最低限の機材費用。頑張ってもどうも自分のうたでは、ここまでしか稼げないからです。生きてはいけない。いつまでもこれでは、ならない。それが、理由でした。


四十の誕生日、我武者羅応援団を迎えて行ったライブで遺し書きという作品発表して、辞めてみました。


しかし、曲はいっぱいになっていたので、わすれものおとしものひろいもの優勝記念セイルと、三年の間に次々と四枚、作っていました。生業が安定したらいつかまた、ライブをやろうと思いながら、替えの弦も買えなかったのは、この頃でした。

空白の期間をできるだけ簡潔に、でも何一つ端折ることなく書いていると、長くなってしまいます。今日は、ここまでにしておきましょう。

実は僕は今日現在、アルバム二枚分をまとめて作っています。以前よりもずっと手際が良くなり、歌えば歌うだけ苦悩したあの頃の自分から、確かにまた少し成長していることを自分ひとりだけで感じること、それを励みにしています。

いつまでも、ひとりきりのたたかいのようです。でも、そうでなくては生まれないものって、あるのだと思っています。死ぬまで続いたらいいな、と願いながら。


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